ブランコあそび

秋千(ぶらんこ)は春の季語なんだよ

私の話

「では今日から働きますか、名前は何にします?」
ヤクザとヤンキーを混ぜたような容貌で、殆ど眉のない男は私に尋ねた。私は自分の新しい名前などを何も考えず、本当になんにも考えず、私というものを証明できるパスポートだけを持ってここに来た。
「何も考えてませんでした。どうしましょうかね。」
と苦笑いしながら、持って来ていたペットボトルのパッケージをちらと見やる。ラベルには、「このお茶には、カラダと美容にいい以下のものが入っています。ハト麦、玄米、ドクダミ…」と書いてあった。
「あ、じゃあマイで。マイでお願いします」
玄米のマイ。なんの思い入れも無く、その場で適当につけた私の新しい名前。
私であって私でない人間、マイ。マイは、爬虫類のような瞳になるコンタクトを入れて、瞬きするのも億劫になるような睫毛を二枚もつけ、生まれつき深く刻まれている奥二重を、それでは足らぬと大きく見せるように糊で更に二重を作った。
今までの人生で一番派手な顔になったマイは、直視出来ないくらいに眩しく真っ白な照明の前に座る。マイの顔はどう見えているのだろう。白飛びして、現実とは違って少しばかりは綺麗に見えているのだろうか。
広く開けられた門と、大きな玄関。マイは、その玄関に座り客を取る仕事を始めた。
前の道を通るのは男だけ。男達が通る度に、小さく首を傾げ、微笑み、手を振る。そうして選んでもらう。
何も考えず、男が通れば愛想で手を振る、それだけの作業だった。
通行人の男が客になった後も、簡単な話だ。ただただ抱かれれば良い。性欲の受け口となるのだ。見知らぬ男と世間話をしながら裸になり、ほんの20分程度で性行為を済ます。それだけで相手は喜んで帰っていく。この世で最高のサービス業なのではなかろうか。

マイは、給料などはどうでも良かった。20分千円でだって構わなかった。ただその20分間、他人に必要だと思われればそれで満足だった。
若くても老いていても、美しくても醜くても、どんな相手にだって組み敷かれその背中に腕をまわしているだけで、マイは少しばかりの幸福感を覚えていた。

仕事を終えた私は、手渡しされた給料をカバンに入れたまま、その足で友達でも、知人でも、勿論恋人でもない男の家へ行く。インターネットで適当に知り合った人間達。昨日はあの人、今日はこの人、明日はその人。そういう人達と、幾度となく体を重ねる。そこには愛の一言など勿論欠片も無く、けれど嫌悪というものも無く、肉欲と、寂しさと、そういうものがあった。
寂しさを埋めたいのだ。悲しさを忘れたいのだ。温もりさえあれば風俗でも良い。友達ような知人のような人間達に抱かれるのみの、肉の器で構わない。
「可愛いね」「一緒にいると楽しい」「好きかもしれない」。そんな偽物の言葉はゴミより汚く、道っ端に落ちている石ころよりも役に立たず、私の心は荒むばかりだ。何の言葉も要らない。真実の言葉以外は、私を抉り切り裂き粉々にするのみである。真実は、私の肉だけを必要として抱く男達の腕、それだけなのだ。
私は男達の家を渡り歩く。嘘の言葉を聞き流して、性欲を受け入れる。欲を受け入れる時、私は唯一必要とされているのだと思い、ささやかな愛情を感じる事が出来る。
私は何者でも無い。何も考えず何も思わず、死んでいるのか生きているのか、不思議な心持ちになる。

ライトに照らされ、年齢不詳になったマイの傍らに座り、店の主のような老婆が男を呼び込む。
「可愛い娘だよ、優しくてイイ娘だよ!」
大声でそう言いながら手招きをする。男はマイを品定めするが、その御眼鏡に適わなかったのだろう、店の前を通り過ぎて行く。
「マイちゃん、本当に明るくてええ子なんやけどなぁ。今日も頑張ろなぁ。」
マイを慰めるためか、老婆は優しく微笑んでくれた。
「ハイ!ありがとうございます!今日もばりばり働きます!」
馬鹿な事をしているマイは、努めて明るく、そして何も知らぬ本物の馬鹿な女に成り下がる。そうして誰からも好かれようと努力する。
マイに親切にしてくれるこの店の老婆は、女性達は、マイを贔屓にしてくれる客達は、何者でもない愚かな私を何も知らない。それが心地良い。

私は全身全霊を持ってして人を愛そうとする。そうして、愛されたいと心から願っている。
私は、誰よりも愛を求めている。

醜く、何者でも無い私の話は、こうして終わる。

金木犀

肌寒くなってきたので、「そろそろかしら」と待っていたら、ようやっと金木犀が咲き始めた。
オレンジ色の小さな小さな花の集まりが、あんなにも広い範囲に香りを届けてくれる。嗅ぐと、肺いっぱいにオレンジの小花が舞うように、豊かな気持ちになれるのだ。
私はこの季節、この香りが届く度に幼少期を思い出す。
二階にあった私の部屋のすぐ裏に、その高さにまで届く大きな金木犀の木があった。濃い緑色の葉の中に沢山のオレンジ色が点々と見えて、窓を閉めていても甘さが香ってくるようだった。
私は金木犀が大好きだった。

そう言えばと、その人のマンションの近くにも、少し大きな金木犀の木があったのが思い出された。
初めて訪れた時は真冬で、勿論花は咲いておらず、木の枝は丸く丁寧に刈られていた。あの濃い緑色の少し厚い葉は、よく見知った金木犀のものだと思った。
「これはね、もしかしたら金木犀の木かもしれない。今は咲いてないけれど、多分秋かな。秋になったらすごいよ。きみの家の周り、すごくいい匂いになると思う」
私は、まだ何の特徴も無いその真ん丸の木を指差しながら、ふふんと少し得意気に言った。
その人はいつも私を褒めてくれるように、
「そうなんだ、よく分かるね。すごいなぁ」
と感心した様子を見せてくれた。私はこうやってよく得意気になり、その人は感心したように頷いてくれていた。

結局、その真ん丸の緑の木は金木犀だったのだろうか。今はもう何も分からない。きっとその人も忘れているだろう。
ああ、また得意な顔になって、
「ほらね、やっぱり金木犀だった!」
とあの木を指差して、その香りを楽しめたらどんなにか良かったろう。
今となっては、金木犀の甘い香りがどうにも息苦しく感じられるのだ。

あの木が、どうか私の知らぬ木でありますように。息苦しい香りの中で、今はそう願っている。