ブランコあそび

秋千(ぶらんこ)は春の季語なんだよ

無気力の中の美しいもの

別にポエムのような、薄ら寒い詩のようなものを書きたいのじゃない。私の語彙力の低さと才能の無さがそうせざるを得なくしている。そして、薄っぺらい内容も。
ただ、私の今のこの気持ちをどうにも出来ないので、書き落とす事で昇華しようと思っているだけなのだ。
だから内容も無い。歳不相応に痛くて寒い詩のようなものになっている…と、こうやって詰まらぬ事を書いて詰まらぬ体裁を取り繕おうとするのが、私の醜いところである。

今日は、私の数少ない友人と会う約束をしていた。
しかし私はやはり最低な人間で、熱が出た事にして予定をキャンセルしてしまった。
とてもじゃないが、今日の外出を楽しめる余裕が無かったのだ。

ここ数日、胃の中に常に何かが入っている感じがされて、水しか飲めない。何日食事をしてないか覚えてないけれど、何かを食べたいとまるで思えない。
それで私の醜かった脂肪は幾らか何処かへ消え去った。しかし、それを見せる相手もなし…。
体力の無さから、今日の外出を断ったと言うのもある。言う程見た目は変わりないが、少し歩けば脈拍が踊るように早くなるし、気管が狭くなったように息苦しくなるし、何より頭痛が酷い。人間にとって食事は大事な作業なのだなと思い知らされる。

私は食事をするのは大好きであったし、そして私は多趣味な人間であったが、その趣味のどれにも食指が動かない。
何かをしたいと思えない。
作業机の上にある彫刻刀やら粘土板は埃を被って汚くなり、クローゼットの中には出る幕の無い手芸用品やら細かなパーツが眠っている。
私はそれを掃除して整理する気にもなれず、私の趣味の物たちにも悲しい思いをさせている、かもしれない。

ところが、昨日「読んでも良い」とやっと許可が降りたある日記を読んで、ああ、自分も書くかと思えるようになったのだ。
ふとその人の「同一化して」という言葉を思い出した。
少し分かったような気がされた。
私は、煙草を吸いアルコール中毒で己の妻に暴力を振るう父の何かしらを真似したいとは終ぞ思わなかったが(私が父を許しているからかもしれない)、その人の真似ならばしたいと思った。
真似なのか、自発的なものではないのかと思うと、自分の小ささにガッカリする。

しかし、私は美しい文章や小難しい単語を知らないし、単純な詰まらない人間であるので、彼のような魅力的な美しいものは書けない。
それがまた私を苦しめる。知識だけではない、才能と、文に対する欲の差を感じるからだ。

「君はやはり何もかもが美しい!文字を見るその瞳も、ペンを持つその手も、そして書き落とした文章までも!」
彼の何もかもを愛しているが、こと文に関しては本当に美しく光るものがあると常に思っている。
手放しでそう彼を賛辞したい。しかしそれはもう私のする事では無い。
そう思うとまた私は、暗く狭く苦しい絶望の箱に仕舞われてしまうのだった。